2.本特定領域の目標

 スピン科学の第一の柱は、スピンにより物質の電子状態を制御する事である。半導体分野では21世紀の半導体技術として、スピン偏極による電気(電子)の制御あるいは電子による磁気(スピン)の制御、すなわちスピントロニクスが目指されている。20世紀の電子技術の基礎は電子構造の理解であり、これにより物質やデバイスの設計が可能になった。一方、スピントロニクスの基盤は電子構造のスピン依存性であり、その解明には、強磁場でスピン偏極を制御したとき電子構造がどのように変わるかを直接調べる必要がある。このためには本領域で目指す強磁場放射光X線分光の開発がそのブレークスルーとなる。スピン偏極の磁場制御は、温度や圧力あるいはドーピングなどによる制御と異なり、自由自在に強さと時間構造を操れ、いつでも元に戻せる点に特徴がある。また100テスラ領域では磁場のエネルギーは数10 meVにも及び、物性を支配するフェルミ面近傍の状態を劇的に変える効果をもつ。強磁場下の電子構造の直接観測によりスピンと伝導電子の相関が解明されれば、半導体分野はもとより物質科学のあらゆる研究の飛躍に繋がる。

 スピン偏極と磁場の物質への影響は、電子がひしめきあい互いに強く相互作用し合う強相関物質ではさらに顕著になる。この状態では、電子のもつ電荷とスピンの自由度の強い結合が梃子となりスピン偏極の効果を数十倍に増大させる。磁性体へのキャリアドーピングによって出現する高温超伝導体や磁場によるスピン偏極で結晶構造まで改変される巨大磁気抵抗効果はその例である。このような物質では電子やスピンはもはやばらばらではなく、集団として新しい相(状態)を形成する。スピン科学の第二の柱は、強磁場により誘起される様々な相の起源を解明し、その制御原理を確立することにある。スピンの空間密度波、電子分布の整列する軌道秩序、磁気励起が固化したマクロな磁化の量子化など、強磁場はエキゾチックな相を誘起する。これらの相はこれまでもっぱら磁化や電気抵抗のようなマクロな量により研究され、決め手となるミクロな計測が限られるため、その本質に迫るのには様々な困難があった。この点で突破口となるのが、中性子散乱、X線散乱、走査プローブ顕微鏡、顕微分光など、ゼロ磁場における物質評価で必須となっている計測手法を超強磁場で実現する事である。このような超強磁場下のミクロ計測の実現により、それぞれの相を特徴づける変数を直接決定し、さらにはその空間的広がりや変調までも明らかにすることが出来る。

  スピンは物質の状態を探る有用なプローブでもある。スピン科学の第三の柱は電子状態のプローブとしてのスピン利用である。蛋白質の構造解析では、原子核のスピンをプローブとする強磁場NMRが大きな役割を果たしてきた。物質の性質の根本は電子の働きである。従って、蛋白の機能解明のためには、生体物質における電子の役割を明らかにすることが必要である。生体の電子機能の研究、とりわけ化学活性の解明にNMRやESRなどのスピン共鳴は必須のプローブである。その際、化学活性を担い素早く変化する電子を捉えるために、スピンプローブの超高周波化が必要である。NMRは超伝導磁石では20テスラ、1GHzが限界であるが、水冷磁石と組み合わせたハイブリッド定常磁場で40テスラNMRが、パルス磁場では80テスラのNMRが可能になる。日本が世界をリードしている高周波ESRを50テスラから100テスラ領域までのばし、生体物質の研究に応用すれば、生体スピン科学が格段に進歩し、蛋白の電子論構築につながる。

  スピンに共役な場である強磁場の有用性の第一は、磁場が非接触でソフトな外場である点である。これは直接操作が困難なナノ物質や脆弱な生体物質では極めて重要である。その一方で100テスラ領域では磁場のエネルギーは数10 meVにも及び、物性を劇的に改変する効果をもつ。ソフトでありながらこのような大きな効果をもつ外部場は他にない。磁場の第二の特長として、強度や時間構造を超精密に制御できる点も重要である。例えば、時間変化する磁場と組み合わせたフェムト秒時間分解分光などにより、スピンの拡散などのコヒーレントな実時間現象を捉える事が出来る。スピンの時間的コヒーレンスの理解は、半導体分野はもとよりナノ分子磁石などの分野でも共通の課題であり、量子計算などの情報科学分野への応用も期待されている

 上記のように、次世代の強磁場スピン科学の推進には、(1)NMRやESRのような強磁場におけるスピン計測法の磁場範囲を100テスラ領域まで拡大すること、(2)これまでゼロ磁場あるいは低磁場でしか行われていない物質評価法を強磁場で実現すること、この二つがその鍵となる。本特定領域はこのような認識から、強磁場下における超精密なミクロ物性計測の実現を通して物質研究の飛躍的発展につなげる。


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